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東京高等裁判所 昭和54年(ネ)1366号 判決 1980年2月27日

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 村上直

同 鳥本昇

被控訴人 甲野一雄

右訴訟代理人弁護士 原秀男

同 竹下正己

主文

原判決を取り消す。

本件を東京地方裁判所に差戻す。

事実

控訴人訴訟代理人は主文と同旨の判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張及び証拠の関係は、次のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(控訴人の主張)

控訴人訴訟代理人弁護士村上直、同鳥本昇が控訴人から本件訴の委任を受けた昭和五三年六月中旬頃の控訴人の精神状態は、「高度の老人性痴呆症」に罹っていたわけではなく、「中等度の症状」であるにすぎず、したがって、控訴人は右訴訟委任当時においては、本件訴訟提起の意味、内容を理解し得たものというべきである。

しかるに、原審は控訴人に本件訴訟委任能力がないとして本件訴を却下したものであるから、控訴人は、原判決の取消しと本件の差戻を求める。

(被控訴人の主張)

控訴人の右主張事実は争う。控訴人の右訴訟代理の委任は控訴人の意思無能力の状態においてなされたものである。すなわち、医師の診断によれば、昭和五三年六月当時における控訴人の精神状態は、財産上の利益について全く興味を失い、利害の判断ができない程度に達していたものである。本件訴訟委任状は、控訴人の右のような精神状態のもとで、訴外甲野春子らの言うがままに作成されたものである。したがって、本件訴訟委任当時、控訴人には訴訟委任をする事理弁識能力がなかったものである。

(証拠の関係)《省略》

理由

一  《証拠省略》を綜合すれば、次の事実が認められる。

1  控訴人は原判決添付別紙物件目録記載の建物(以下、本件建物という。)に妻花子、長女春子と同居していたが、昭和五二年一二月二五日原因不明の高熱を発する病に罹り、その後昭和五三年二月三日頃までの間発熱を繰り返し屡々意識混濁等の症状を起し、医師坂口義信の往診をうけて自宅で治療をうけていた。ところが、同年春頃、春子は本件建物の所有権が登記簿上控訴人から被控訴人に移転されていることを知った。そこで、同女は、控訴人にその事情を尋ねたところ、控訴人は右登記の事実は全く知らないと答え、春子に対し本件訴訟代理人の村上直弁護士にその善後策を相談するよう頼んだ。なお、控訴人は、春子の離婚問題の処理を契機として村上弁護士とはすでに面識があり、春子は同弁護士の所属する協立法律事務所に事務員として勤務していた。

2  春子は早速、村上弁護士に相談したところ、同弁護士は春子に対し、本件の事実関係の調査及び証拠の収集とともに、控訴人の精神状態につき東京大学附属病院で受診しておくよう指示した。かくして、控訴人は同年六月九日同附属病院精神科において診察をうけたところ、「老人性痴呆症」と診断された。

3  村上弁護士は、春子に指示しておいた事項について一応の調査が得られたので、同年六月一六日夜、控訴人宅を訪れ、その妻花子、長女春子のほかに同弁護士が立会を希望しておいた右花子の実弟である乙山松夫の立会のもとに、約一時間にわたって控訴人と面談した。村上弁護士の質問に対し、控訴人はその質問の趣旨を理解して応答したが、過去の事実ことに本件建物に関する登記手続及びその原因となった公正証書の作成の経緯とその内容等については記憶が殆んどなく、記憶力の程度が相当低いことが窺われた。しかし、控訴人は、本件に関しては、被控訴人に本件建物の所有権を移転した覚えはないから、右登記名義を回復してほしいと村上弁護士に訴訟提起の委任をした。同弁護士は控訴人と面談の結果、控訴人には本件訴訟を委任する意思及び右委任に必要な程度の意思能力があるとの心証を得たので、春子に対し、弁護士村上直、同鳥本昇を訴訟代理人に委任する旨の本件訴訟委任状用紙一通を手渡した。

4  他方、控訴人は同年六月二二日前記附属病院老人科で老人性痴呆その他の内科疾患の治療をうけることになり、同年七月三日から同病院に入院した。同年同月六日頃春子は控訴人に代って前記委任状用紙の委任事項欄に「私より被告甲野一雄に対し所有権移転登記抹消請求の訴訟を提起し、これを処理する一切の件」と記入したうえ、控訴人に対し、右記載事項及び同委任状用紙に記載されたその他の事項を読み聞かせ、控訴人は右記入事項を確認のうえ、自ら委任者欄に住所を書き、氏名を自署して押印した。春子はその後同年同月二八日控訴人に代って同委任状に同日の日付を記入したうえ、これを村上弁護士に交付した。

以上の事実が認められる。控訴人本人は原審において昭和五三年一一月一六日行われた臨床尋問において、「村上弁護士に本件訴訟の委任をしたことがない。」旨供述しているが、原審証人丹羽真一の証言によれば、右尋問時においては控訴人の老人性痴呆の病勢は前記委任時に比べて高度に進行していたことが認められるから、右控訴人本人の供述は措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定の事実によれば、控訴人は昭和五三年六、七月頃自己の意思により村上弁護士に本件訴訟の提起を委任し、かつ当時右訴訟委任に必要な意思能力を有していたと認めるのが相当である。もっとも前記丹羽証人は、「老人性痴呆を初期、中期、末期に区分した場合、控訴人の昭和五三年六月頃における病状は中期に属し、正確な理解力を欠き、訴訟委任ということについても、正確な理解力はなかったように思う。また、自分の意思で訴訟委任などということをきめることができるような状態ではなかったと思う。」と証言するが、右証言の後段部分は本件訴訟委任がなされるに至った具体的経過を踏まえての鑑定的な所見ではなく、いわば一般的、推測的な所見を述べたに止まるものと解せられるから、右証言をもってしては前記認定を覆すに足りないというべきである。

二  以上によれば、控訴人に訴訟委任をする訴訟能力がなく、したがって、本件訴訟委任行為は無効であるとして本件訴を却下した原判決は失当といわねばならないから、原判決を取り消して、本件を東京地方裁判所に差戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡辺忠之 裁判官 鈴木重信 糟谷忠男)

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